日常の記録⇔体の記憶

今日のワークショップで紹介されたアニメーション動画「失われた朝食」は、とても強烈で慄いてしまった。しばらく興奮していたため、その後の皆さんの話に全く入っていけず、作品の中にある排水溝から流れ落ちてしまった朝食のように、何か話したらおかしなことが零れ落ちないかと、必死にこらえていた。

この作品は、おじさんかおばさんか分からない中年(のちに男性と判明)が、朝起きてからのルーティーンが少しづつ壊れていく様子をシュールに描き出している。一つのことがほころび始めるとどうしようもなくなり、日常的に記録されてきた身体の所作が足かせとなり、とことん壊されていく。バックに流れる音は荒い呼吸音で、やるせないサラリーマンの朝食が意思とは関係なく非日常のループに組み込まれていくさまがとても身体的で、順番・数・場所・サイズがどんどずれていくにしたがって、どんどん奥歯がかゆくなった。紙におかれたティーパックのシミさえも体に充満していくような。

美術教師という職業柄か、日常を絵コンテのように体のどこかに写メしているところがある。それが空間や場に放たれるものをダンスといいたい部分がある。なので、このアニメーションはとてもダンス的だった。

今日の宿題は『日常の中で今から5分間はダンスだと思って過ごしてみる。そのように意識したときに何が変わるのか?何が日常の行為をダンスたらしめるのか?』である。

夕飯を作っているときのこと。宿題を少しだけ考えたが多分1分も持たなかった。しかし、食器乾燥棚の上の方に立てかけてあった菜箸が、振り向きざまにぐさりと顎に当たった時、本当にびっくりするほど鮮明に、20数年前に横浜の中華街で食べたお店の奥にある白い二階に上がる階段が浮かんだ。きっと麻婆豆腐を作っていたからだろうけど。

広太さんが仰るように「言葉はすべてを説明できないし、過程なので重要じゃない。」と思うが、指で体の一部を触った皮膚感覚から言葉を紡ぐワークショップの時にはあいまいだったことが少しすっきりした。

この経験は少し大切にしておこう。

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