「やさしい」はどこからくるのか。なぜそう感じるのか。
私が今感じていることは、言葉で表せば「やさしい」だけど、「優しい」ではないし、「易しい」ではもちろんない。
「穏やか」の方が感覚としては近いと思うんだけど、でも「やさしい」という言葉の方がしっくりくる。
今私が「やさしいと感じている」と誰かに言ったとして、実際に感じているこの感覚をそっくりそのまま伝えられるのか。といえば、多分できなくて。
形容詞ほどその人個人の記憶・経験・知識・情報に依存するものはないような。
(それらはどこにある?実は全て身体的感覚にあると言えそうな気がしてきたけど、これはちょっとわからない)
でも、別に形容詞だけじゃない。天気だってどこまでが晴れでどこからが曇りか。
たしかに天気用語としては、雲が空の9割を占めていたら曇りっていう決まりがあるけど、でも日常の中ではもっと感覚的に言ってる。
私と誰かの小雨と霧雨の境目は多分違う。
(どうでもいいけど、霧雨ってきれいな言葉だ。なぜそう感じる?)
私は私の「やさしい」をこれまで育ててきた、みたいな気分になってきた。
過去とのネットワークの産物。
違うか。変化途上のネットワークで、ある一点を抜き出した感じなのか。
ネットワークはその気になれば再構築できる。
いつその気になるかだけの話で。
ネットワークに限らず、大体のものは再構築できるんではなかろうか?
恐ろしく難しいことはあっても、絶対に不可能ということってないような。
その気にさえなれば。
再構築とか言うから難しい。変化でいいんじゃないの?
全くもって変化しないものはありうるのか。あるとしたら、どんな状態?
でも再構築っていうと、過去から組み替える可能性を含んでいるのか?
今、から過去を変えられるってことなのか?少なくとも触ることはできる…?
じゃあ、言葉で伝えることにはどんな意義があるのか。
完全一致するはずもないがある一定の共通項がある感覚に「やさしい」という名称を付けて、その言葉を自分ではない他人に伝え、得られるものとは?
理解?完全一致しないものを介して伝えているのに、それは可能なのか?
だけど会話をしていて、「伝わった」「通じた」「わかった/わかってもらえた」という感覚を持つことはある。何をもって私はそう判断しているのか?
逆に「わかったよ」と言われても、会話がいくら続いても、絶対伝わってないと思うこともある。なぜ?
それでも私は、言葉を大事にしている節がある。それもまた妙な話。
では、理解してもらえることはあり得ないという前提に立って、
そもそもお互いが理解を求めないで会話した時、相手から発せられた言葉から思考が影響を受けずにいられるのか?
・・・私は誰と会話しているの?相手?言葉?それとも自分自身?
逆に、もし人と人との間に存在する全ての言葉が完全一致しているとして、
その場合に会話から得られるものは一体何?
理解とは。伝わるとは。
世の中に完全一致するものは存在するのか?
私はダンサーなので、普段作品を創ることはありません。
今回、創り手としてのプロセスを踏んでみることで、違う視点に立って、作品とは、ダンサーとは、といったことに向き合ってみたいと思っています。
今のところ作品として形にする糸口すら全くつかめていませんが、最終的には自分の身体を何らか関わらせてプレゼンテーションをするところまでもっていきたいと考えています。
その最初のスタート地点として(スタート地点になりうるのかどうかもまだわからないけれど)、上の文章を残します。
幼少よりバレエを学ぶ。高校卒業後、オーストリアのウィーンコンセルヴァトワールに留学。その後、チェコ国立モラヴィアン・シレジアン劇場に4年間所属した。現在は福岡を拠点に活動中。コンテンポラリーダンスプロジェクト「SnC」の活動には、第1回公演から参加している。2018年・2019年には、福岡県等が主催したアーティスト・イン・レジデンス企画「筑後ダンスプログラム」に参加。2020年より、ダンスとビジュアルアートのプロジェクト「CKK」に参加。